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境界を、ほどくつなぐ|長亭GALLERY|東京日本橋

グループ展「境界を、ほどくつなぐ」
長亭GALLERY @changting_gallery


安田知司 @tomoshiyasuda
松村咲希 @sakimatsumura_
村田奈生子 @naokomrt

 

2023.2.18(Sat) - 3.5(Sun)
13:00-19:00 月、火休み
会場:東京都中央区日本橋久松町4-12コスギビル4F長亭GALLERY
長亭GALLERY @changting_gallery
info@changting-gallery.com

展覧会によせてのそれぞれのコメント、販売についてはWEBよりご確認ください。
https://www.changting-gallery.com/exhibitions-20230218

 

展覧会に寄せて
私の作品は技法や、マテリアル、複数の要素が混在する。それらを半ば強引に何も描かれていない白線(間・面)によってつなぎ合わせて一枚の絵に仕上げている。白線は構造的には絵画の下地、平面性をあばきつつ、図像としては線として見える。私の作品は境界をほどき、つなぎ、行き来するような認識のされ方をしながら成立していると思う。今回のグループ展は一緒に展示してみたい相手として、私が安田氏を、安田氏が村田氏を指名し集まった三人で、後から「共通点はなにか」とタイトルテーマを出しあった。私自身も三人の共通点と、アプローチの違いを楽しみたい。
松村咲希

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「境界を、ほどくつなぐ」

 

モダンアートは都市の表現であると言われる。都市とは即ち近代都市であり、鉄道や自動車、船などの交通網と鉄とガラス、コンクリートに覆われた幾何学的な建築が林立する場所である。そこに地域性はない。印象派は、鉄道や郊外の行楽地など近代生活の様子を描いた。素早く描けるチューブ入りの絵の具は、刻々と変化する色彩を捉え、風景は分割された筆触の集積となっていった。色彩はさらに微分化されて点描となり、新印象派と呼ばれようになる。ドットの平面となった絵画は、今日のテレビやモニターの先駆けといってよい。いっぽうで、新聞や雑誌などのマスメディアが勃興し、市民のイメージを形成していく。しかし、今日の社会では都市と郊外といった区分けも意味をなさない。地球のどこに住んでいても、常時接続され、私たちのイメージを覆っている。直接目に見える風景も、スマーフォンの画面によって寸断される。私たちを分ける境界は、分裂していると同時に、つながっているという矛盾した状態にあるのだ。

 

安田知司は、インターネットの画像から人物を選び出し、粗い画像のようにモザイク状にして、1色ずつ丹念に塗り込んでいく。それらの絵画は、近くで見れば、均等に並べられた絵の具の集積にしか見えないが、距離をとって眺めると、人物の像として捉えることができる。スーラやシニャックのような新印象派の手法は、三原色に補色を加え、最小限に還元化された色をドットにして並置し、鑑賞者の視覚で「混色」される仕掛けになっている。ただし、近づいても、ある程度のモチーフは把握できる。安田の絵画の場合、モザイク状の1色は、デジタル画像の色を再現したものであり、それぞれ色は違うが、粗すぎるため詳細な像を結ぶことはない。鑑賞が何らかの人物像を認識するためには、鑑賞者自身の知覚や記憶によって補完される必要がある。そこに何かが見えたときは、安田との共同作業が成立した瞬間でもあるのだ。

 

松村咲希もまた、インターネットで、火星や月面の衛星画像を取り寄せ、それらを分解し、粗くして、画面上で統合している。分解された像を含めて、絵画が何層にも分けられており、それらの層は、それぞれ別のマテリアルが使われている。アクリル絵の具やシルクスクリーン、スプレー、モデリングペーストなど、異なる質感の層が複雑に切断されたり、横断したりし、折り目のように重なっている。衛星画像は元の画像がわからないくらい粗いドットで刷られ、逆に立体的なモデリングペーストに吹き付けられた陰影は、月面や火星面の衛星や赤色立体地図のような表現になっている。その起伏から鑑賞者は、衛星画像を連想するかもしれないが、何の再現性もないフェイクに過ぎない。立体的で鮮明な質感はフェイクで、粗い画像こそがリアルなものの痕跡を残している。しかし、確かに衛星画像のイメージが共有される。松村が設けたリアルとフェイク、複雑な層を乗り越えて共有されるものがあるならば、それもまた、鑑賞者の中にイメージが内在しているからであろう。

 

村田奈生子は、雑誌などのモノクロの印刷物や紙類を構成したコラージュを下絵として、カンヴァスに描き起こす作品を制作している。カンヴァスに描く際、コラージュは正確な下絵ではなく、方向性を示す指針のようなものだ。コラージュの制作された紙と、カンヴァスはサイズもメディウムも異なるし、その時の村田の感覚も異なる。それらは建築の設計図面のようなものではなく、むしろ音楽の楽譜、もっと言えばジャズのコード進行に近いかもしれない。その時のセッションメンバー、空間、観衆によって、ある程度の同一性や反復性を残しつつも、一回限りの演奏、作品となる。それは日本画を専攻していたときの下絵主義への反発と、ベーシストとしての経験から来るものかもしれない。その点で、村田のコラージュも、キュビスム、ダダを経由したものよりも、マティスの切り絵に近いといえる。カレンダーを切り裂いて、再統合したシリーズも、パターンの変奏と時間への関心が投影されたものといえるだろう。それらが「上演」された空間において、鑑賞者が見る時間もまた一回性のものであり、そこからどのような五彩を呼び起こすのかは鑑賞者の即興的なイメージに依存するだろう。

 

今日、電子化された都市や風景は、ネットワークに偏在し、私たちの記憶も他者の外部記憶とつながっている。その断片化し、混線した自己と他者の境界を、ほどくこと。そのために、ここにいるアーティストたちはそれぞれのやり方で、自分の中のデータベースをサーチし、最小の単位を見つける。そして、新たな方法でつなげなおす。再配線する。それは脳の想像/創造のプロセスと極めて近い。しかし、完全に結線していない状態で投げ出されている。それを想像してつなげるのは、見ているあなたなのだ。

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